昭和53年07月01日 朝の御理解



 御理解 第35節
 「信心は日々の改まりが第一じゃ、毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」

 家内に不和はないという為に、私共の心がいつも神様へ向かう、その心が瑞々しい、生き生きとした心でなからなければならないかと。それは元日のような心、というふうに表現しておられます。信心は家庭に不和のなきがもと、とまでいわれるのですから、これはあらゆる手立てあらゆる工夫をしてからでもその家庭に不和はない、というおかげを頂かにゃならん。
 結局不和な雰囲気がもしあるとするなら、いわゆる元日の心、いや昨夜からの心がけね、日が暮れたら、大晦日と思うてと言われる様な、締め括りが出来んでおっての、今日であったから、元日の様な心にも成れていないんだと、まあ悟らねばならんと思うですね。私は今朝〔親子は一世 夫婦は二世 主従三世〕という事を頂きました。これは別に諺ではなく、まあ芝居の文句かなんか台詞じゃあないでしょうかね。
 主従は三世 夫婦は二世 親子は一世。親子が一番縁が深うなからねばならんのに、主従が一番縁が深いと、言う様な感じですけれども実は、同じだと思うですよね。それを私は今日は、真愛、親愛、神愛、というふうに感じました。一番早く頂かれたのは、甘木が真愛、真の愛。それから合楽が神愛会という、神愛。久留米がずうっと後でしたけれども、親の愛。
 同じ筑後地区に筑水関係だけにですどうして三代金光様は「しんあい」という同じゴロですけれども違った真の愛、神の愛、親の愛、と言う様にしかも同じ筑水地区にそういう、おかげを下さったんだろうかと。私は数十年も前でしたけれども、『大きな傘に合楽の神愛と書いた大きな番傘の大きな傘』を頂いてその下にこうあのうよく壁に書かれた相合い傘と言った様な相合い傘を書く時に傘を書いて花子さんと太郎さんと書いたようなのがありますよね。よく落書きなんかに。
 ああ言う様な感じで大きな神愛会という大きな番傘の下に、傘下ですよ所謂。にいわゆる真愛会と親愛会。親の愛と真の会というのを頂いたんです。こりゃ合楽の傘下になる、そういうこつじぁないです。金光様がいうならば、神愛会、神愛会、親愛会、と下さったのではあるけれども、その神愛会というのはね、同じなんだよと。だからどの愛からでも、いうならば天地と交流する、神様と交流する手立てになるんだよと、それがやはり合楽のではない教会の特色と言った様なものになって来ておるんだと。
 神様と交流するという点では同じなんだと。主従が交流するね。これを私はもう人間愛の最高のもの。いうならば赤の他人の旦那様のために命を捨てると言う様な、お芝居なんかによくありますよね、だからいうならば人情としては最高。いうならば神情神の情に交う思いだと思いますね、主従三世と言った様なものは、そういう所から生まれたものではないかと思います。ね、
 勿論これは仲のよい夫婦と言う事でしょう。合楽といういうならば神様と氏子が仲ようする。男と女が仲ようする合楽し合う。そこから生み出されて来るもの。やはり神愛である。親の愛。勿論神様が子供を持って合点せよ、とか教えの中に出てくる親の愛。いわゆるいうならば子供を持って合点せよ、屑の子があればその屑の子が可愛いのが親心。親の心じゃと仰る意味においての親の愛、凡情ではないですね。
 いうならば子供が悪い事でもしたならばね、それを癒うてやりたいような心が親の心だ、というような意味なんです。そして私は色々思わして頂いたんですけれども、玉水の湯川先生が今でもそうですけれども、当時それこそ一世を風靡された先生です。玉水の教会といえば本当に日本一の教会でございますが、玉水の先生はその教を起こされたその、芯に成っておるのは、主従の事を説かれたのですね、親子じゃなかったんです。私は改めて今日はその事を感じさせて頂ました。
 あちらの玉水の信心は神様が御主人でね、いうならば主人はそこの番頭さん、家内はそこの女中さん。だからその番頭さんがいうならば忠実に仕える女中が忠実に仕えるならば、主人がそれに目をかけないはずがない。だからお商売をさして貰うならば、あんたが社長じゃないんだよとね。奥さんがそこの社長婦人じゃないんだよと、社長は神様だよと。そして、あんたは支配人だよ、あんたは女中頭だというふうに説かれたんです。主従関係から説かれたんです。それでああいう大した御比礼を頂かれた。ね。
 まあ当代第一といわれる泉尾はどうかというと、それこそ願いの信心にもう本当に願いの信心が最高峰、信心の願いとかお礼とかお詫びとか、お礼とか言われるけれども、その中の究極は願いの信心になると。私がこの願いの信心と言う事を言い出しましたのはつい最近ですけれども、そげなこつじゃなかと、一生懸命お詫びすりゃ、お詫びが適えばおかげになる。
一生懸命お礼申し上げりゃもう、お礼だけでおかげになる。確かになるです。けれども私共はそれだけでいいだろうか。どんな場合であっても、私共の心の底には、願わずにおれない事が、必ずあると言う事です。だから願わずにおれんという心はもういつもある。それで願うちゃ、下品な下さくな信心かというと、決してそうじゃない。親だから子だからなんです。御腹がすけばいうならば、乳呑み子が母親の膝に這い上がって行く様なもの。親は又それを抱え上げて乳を与えるようなもの、
 泉尾の先生という方は、もうそういう天地金乃神様を親神様、親神様と皆いうがその親神様と一番近い距離に居られる先生なんだなあと。だから願わずにはおれなさらんのだなあと、だから自分のような鈍物でも、神様がかばいにかぼうて下さるのだと我、鈍物と言う事。願って願ってというのが、泉尾の信心の芯になっておるように思うです。それは言うならば、親の情というものを愈々私は悟られ知られ、親の一番側にあると言った様な感じが致します。
 そしてあれだけのそれこそ、世界を股に掛けて言うならば活躍なされております。親の情それが分かれば分かる程、親ですから願わずにはおられん、縋らずにはおられんと言う事になって来るのです。合楽の場合にはねそれがこういうならば男と女との愛とでも申しましようか、まあ夫婦の愛というてもよいでしよう。合楽し合うねそこには何も無い。そのクライマックスとでもいいますかね、最高潮というそこからね本当の愛が生まれる。
 それが親愛なんだ。だから交流する、だから生み出される。
 今日はそういうふうに、私は親子は一世、夫婦は二世、主従三世の 世の例えってというのがね、それは縁が深いとか、結局ぎりぎりの所になって参りますとです。同じだという事です。ただ教会の一つの性格とでも申しましようかね、そういうものがなら玉水さん、泉尾さんそして合楽さん、この三つの教会にこう本当に端的に現れておるという感じがします。合楽し合う世界。
 それを教祖の神様は、金光大神の信心というのが私が最近よく使いますように、宗教以前の宗教だと。人間のいうならば思索とか、又はそこに奇跡的な霊験が生まれたから、そこに沢山の人が集まったというのではない。これからは方位を忌まわず教えの昔に帰れよとこうある。いうならば様々の宗教が三千年なら三千年の間にこう出来たとします。それ以前の宗教だと。教祖の神様のご信心はそれなんです。だからどうしても、天地との交流。天地が示して下さる教え。宗教とはウ冠に示すとある。
 天地が示して下さる事を教える。思索からじぁない。ただおかげさえ頂きゃよか、霊験奇跡的おかげさえ頂きゃよかと、いうのじぁない。奇蹟的おかげとか何とかいうのなら、例え何々の神様といわんでも、石の祠でも一心不乱に例えば拝むと言う事から、奇跡的なおかげを受けた人は、沢山あります、お里沢一じゃないけれども、それこそお観音様を一世懸命拝んで、自分共は死んだと思うとったら、言わばその目があいとったと言うた様なね、それはわが心に神がござるから、おかげになると仰る。
 そういうのは。だからキリストならずとも、奇跡は言うならばどこででも誰ででもいうならば、長い歴史の間に振り返って見ると、奇跡的なおかげが頂けるから、本当の信心と言う様なこつじゃない。本当な信心というのは、そういう言うならば、人智人力をもってのものではなくて、それ以前のいうならば方位を忌まずと言う事。勿論方位方角の事をいっておられますのです。けれどもこれは人間がでっち上げた一つの学問のようなものです。方位とかそういうものはないと言ゃ無い有るといゃ有るんです。
 だから無い昔に帰れというのです。金光教では方位はいわん方角はいわん。日の善いの悪いのはいわんで結構、広々とした心でおかげが頂けるというのは、教えの昔に還っておる姿です。だからです、教えの昔に還った人間の心の中にです、いうなら主従三世。夫婦は二世親子は一世という、ひとつの愛の心と言うものがですね、そこに浮き彫りになって来るわけです。その愛をもってするならばです、愛する楽しみも又愛する喜びですね、愛する喜び愛される楽しみ。
 いうならばそういうものが生れてくるわけです。そういう信心をです、私共が生き生きと頂きとめるという事の為に、一つ皆がね元日の心で過ごせと。そん為には前の晩から大晦日の心で、一日のあれもこれも締め括って、それこそ朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さと言う様な一日が、祈りに明け暮れさして頂ける信心の歓びを、噛みしめながら寝につく。やすませてもらう。明くる日は、それこそ清々しい又、元日の朝のような心が与えられる。そういう心で過ごせそして、分かるところが分かる。
 それがいきなりじゃいかん。いうなれば合楽でいわれております合楽理念を基にしての生活。それを今日は、親子は一世夫婦は二世主従三世という世の誓からね、今日は頂いたんですけれどもね、そしてそういう生き生きした心でもって家庭に不和のなきが元だと。もし不和な雰囲気でもあったならばそういう主従三世親子は何々夫婦は何々という、それが欠けておるんだとね、そこからは良いものは生まれない。
 昨日学院の野口順子さんから手紙が参っとりました。今日は今までは張り切っとったのが少し弛んだのではないでしょうか、授業を受けとったらうとうとと眠ってしまった。眠むっとる間にまあお知らせを頂きました。親先生がお結界に座ってござる。そして何ちゅうか「うとうととしていましたらお結界に親先生が、親先生がお結界に座られておる所が浮かんで参りました。そしてそげなこつでどうするの」と言わっしゃったげなたい。(笑い)びっくりして目が覚めて次の授業が受けられたと書いておりますね。
 そのびっくりする程のね、もうさあ昨日は大祓であれだけ、そして夕べは月末の御礼信話会には皆集まって来とります。そしておそうまでいうなら発表研修さして頂いてそしてこうやって、沢山朝の御祈念に参って来ておられる。そして今日は七月一日の今日からいうなら夏期信行が始まるのですから、又皆さん出ておいでにゃならんでしょうね。それこそ祈りに明け暮れしなけりゃならん。
 そういう時でないと端々しいものは生まれてこんです。ああ今日は大祭で疲れた、今晩な御無礼しゅうてんなんてんと言った様な事ではね、もう必ずそこにはいうならば不和の元が育ってくるです。張り切ってというだけの誰かに昨日話した事でしたけれども、もうきついけれども張り切って我慢してからやって来たと言う様な事をいうから、その張り切っただけじゃいかんよと、心が有り難い端々しいものでなからんと、そげなこつしよると病気するよあんたはと話した事でした。
 いくら信心じゃからというてもうきつしてこたえんばってんそれこそ、まあお参りして来たという。そげなこつじゃいけん。そげなこつじゃ体にさわる。心の喜び端々しい又新たないうならば信心を頂かせて頂く、その信心の喜びとかお礼心と言った様なものがね、に。だから心のおくり合わせを先に願いなさい。誰だったかそう言う事をいうておられた。体がきつい時には、心のおくり合わせを先ず願え。
 事のおくり合わせよりも、心のおくり合わせを頂いてそれこそ大晦日のような心。又は元日の様な心にならせて頂いておかげを頂いていかなければならん そこには家庭不和というだけではありません、おかげの頂ける条件が色々足うて来るんですね、それで私共がね人間生身を持っておりますから、だらっとする時もありますけれども、そういう時にぱっとお気付け下さるとしゃっとなるようなね。
 生きた信心を日頃しとかなきゃいけない。丁度、蛤なら蛤がね、中の身を出してでれっとなっとる時がありましょうがありゃやっぱりでれっとなっとるのも生きてる証拠。そういう時に神様が必ずですね、信心頂いとると今の順子さんじゃないばってん「そげなこつでどうするの」と言われる様な言うならば、神様がお気付けを下さる。ぱっとそしたら蛤がでれっとなっとっても、ちょっと触っただけでぱぁっとひきしまるでしょうが、そういう内容が私共にはあるんです。
 ですから引き締まれれるいうなら日頃生きた日頃信心を、だからしておかなければならない。生きた信心からでなければ本当の意味においてのいうならば家庭に不和のなきが元と言った様なものは生まれません。それには初めにありますように、信心は日々の改まりが第一だと。改まりという事にいつも精進さして頂く所から生き生きとしたものが生まれると思うですね。
   どうぞ。